プロフィール生い立ち選挙の軌跡

■生い立ち

幼少期 (1970〜1976)

4才時
3才 家の仕事場にて
ノミを持って仕事を手伝っているつもりらしい
 

田舎暮らしの家で牛と友達だった頃

1970年1月12日富津市数馬に生まれる。
家は父一人で建具屋を営みながら、米作中心の農業も行い生計をたてており、マキのお風呂にレンタンの掘りコタツで、ずいぶん昔ながらの生活をしていたように思います。
仕事で余った木っ端で遊んだり、隣家で飼っている牛をかまったり、虫を捕まえて図鑑と見比べたりしていることが多かったことを覚えています。


小校生期 (1976〜1982)

湊川と湊小学校が遊び場でした

低学年の頃はスカートめくりや人がやらない(言えない?)ようなことばかりやってました。高学年になると、少しおちついてたかもしれません。
学校では図画工作が得意で2年生から6年生まで5年連続で作品が入選しました。児童会運営委員や学級委員長なんていうのもやりました。
6年生の秋に父が脳内出血で倒れました。大手術の末一命はとりとめ、何とか元気になりましたが、母一人がパートで家計を支え経済的には大変厳しくなりました。精神的にはこれまでの人生で一番大きな転機だったと思います。

 
10才時
10才 愛車999号と
何故かニューヨークヤンキースの野球帽をかぶってました。

中学生期 (1982〜1985)

14才時
14才 修学旅行にて
中学では校則で坊主でした。
 

親友との出会い

中学2年の時、友達の影響でファッションや洋楽に興味を抱く都会かぶれの田舎少年へと変わりました。彼らが中学以来ず−−っと一番の親友(悪友?)です。
家で全く勉強しなかったせいか、英語が苦手になり、得意科目は理数系に偏りました。意外かもしれませんが主要5科目より、美術,技術,体育,音楽の方が成績は良かったです。生徒会副会長やクラス会長などもやりました。
中3の時に祖父が倒れ植物状態になりましたが、以来祖母が14年以上付っきりで介護をしてました。祖母には色々なことを教わりました。


高校生期 (1985〜1988)

バイトとバンドとコンサート

部活も勉強もせず毎日毎日中学の友達とたまり場で遊んでました。
休みの日はバイトをするか、東京に行って遊んでることが多かったです。中学で聴いてた洋楽はヘビメタと言われるジャンルに偏り(ヘビメタ狂でした)、バイトでためたお金で、ギターやドラムを買ってバンドを組んだり、学校をサボってコンサートに行ったりしてました(高2のときは月1回ペース)。
高校ではクラスで中の上くらいの成績でしたが、千葉大,明治大など4校受験し、全滅で浪人が決まりました。

 
17才時
17才 友達とたまり場で
中学の友達の家がたまり場でした

予備校生期 (1988〜1989)

1番努力した1年

津田沼の代々木ゼミナールの国立理科系コースに1年間通いました。
中学の友達が就職で東京に出てしまったこともあり、この1年だけは真剣に勉強しました。夏休み後から成績が急激に伸び始め、12月には千葉大志望だったものが、1月には東工大に変わり、共通一次試験を受けた後に、思い切って東大を受験することに決めました。5校受験し今度は全て合格し、東大に進学することになりました。
この1年間はとても苦しかったですが、良かれ悪しかれ、その後の人生を左右する大きな1年でした。


大学生期 (1989〜1993)

21才時
21才 実家の物置で
もらったレーシングカートをレストアした時の記念
 

バブル絶頂期の東京学生生活

東京では母の姉の家(練馬区石神井)に居候させてもらい、バイトと奨学金で生活してました。中学の友達や、大学の友達とずいぶん色んなことを経験しました。バンド活動も再開し学園祭やライブハウスで演奏してました。
研究室はヒューマンウェア工学研究室(JR東日本寄附講座)で、卒論は“ソーラーカーの企画・設計”でした(鈴鹿や能登のソーラーカーラリーに出場したりしました)。
企業(KOMATSU)出身の草加浩平先生と、工業デザイナーの山中俊治先生という大学では珍しい先生方に恵まれ、充実した大学生活を送ることができました。
就職する予定でしたが、大学の推薦枠で大学院に進学できることになり、月尾研修室(システム工学研究室)に進学することに決めました。


大学院生期 (1993〜1995)

初めての一人暮らし

大学院時代は母の実家の知人所有の空部屋(北区王子)に住まわせてもらい、やはりバイトと奨学金で生活してました。
一人暮らしになり、生活のリズムは乱れまくってました。
修士論文は“感性情報抽出のための音声情報処理システムの研究” で、苦手だったコンピュータを、この2年間で克服した気がします。
教授の月尾嘉男先生には、工学についてはほとんど何も教えてもらいませんでしたが、もっと大切なことを教えていただいたと感謝しています。
就職は地元に帰って将来を考えたいと思い、新日鉄に決めました。

 
24才時
24才 イタリアにて
卒業旅行で行ったミラノサンシーロスタジアムでサッカー観戦

サラリーマン期 (1995〜1999)

27才時
27才 昇仙峡
富士ロックフェスティバルのあと昇仙峡に行って写したものです
 

大企業での修行時代

希望通り実家に近い富津の新日鉄総合技術センターに配属になり、君津製鉄所や八幡製鉄所の大きなプロジェクトで、プラントエンジニアリングの仕事をしていました。
設備計画や設計・発注,予算管理,工程管理など、大変遣り甲斐のある仕事でした。
休日は東京から帰ってきた中学時代の友人や会社の友達と過ごしていました。
丸4年間勤めましたが、サラリーマン生活への疑問と、地元で地元のために働きたいという気持ちから、さんざん悩んだ挙句に、退職を決めました。


転換期 (1999〜2000)

会社を辞めた後は、データベースやホームページの作成による収入と失業保険で生計を立てながら、自立するための試行錯誤でした。
富津でシステム系の会社を立ち上げるのは厳しい状況でしたし、自分と同じ年代の富津で働きたい人達が富津で働く基盤のようなものを作るためにはどうしたらよいか考え、政治家として地域活性化に取り組むことが、厳しいけれども一番の正攻法であるという結論に達し、2000年4月の市議会議員選挙に立候補する決意をしました。


2000年〜

“30にして立つ”ではありませんが、ようやく自分の進む方向を定められたように思います。
小学校6年生のときに父が倒れてから、家族は親戚や両親の友人に助けられ、東京での生活も親戚のおじさんやおばさんに助けてもらい、いつも楽しく過ごさせてくれた中学からの友人がいて、本当に本当に頑張って家を支えてきた母がいました。経済的には厳しかったですが、たくさんの人に支えられ、本当に恵まれた環境で、大学進学や退職、市議会議員立候補とずいぶんわがままに過ごしてきたように思います。
私が今まで感じてきた感謝の気持ちを少しでも多くの人に伝えることが、自分のできる精一杯の恩返しであり、役目だと思って、これから精一杯努力していきたいと思います。


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